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for Responsible teachers (Soliloquy)

February 7th, 1996 / February 21st, 2024



ジグソーパズルのひとかけら



令和6年度能登半島地震に被災された全ての皆様に、心よりお見舞い申し上げます。 また、ネット上での自己顕示もせず、 真摯に救援、救護、復旧に当たっていらっしゃる全ての皆様に、心より敬意を表します。

今回の地震においては、 自分の恣意や独断でネット上で安易に批判したりアピールしたり転載したりして貢献した心算になって自己満足したり、 自称ボランティアが色々とやらかしたり、そんな一部の人達に因り、 現場を困惑させ混乱させる場面も彼方此方で起きて居る様ですが、 少なくとも、今のヨノナカ、スマホでネットに繋がる環境を持って居るという前提ならば、 只でさえ情報が交錯する初動の時期は、 時系列を含め信憑性信頼性の検証の手間が増える、SNSの非公式の投稿よりは、 大局的に密に連携し各組織でプロフェッショナルに活動して居る人達による 各公式サイトを適宜チェックし其処から思考する方が間違いが無いと考えて居りますし、 私自身も勤務校の公式サイトや危機の管理をこの観点で行って居ります。 マスコミの視点の歪みは問題外。 この辺りの事は、勿論、発信する人の立場(仕事とか地域とか)やタイミング(初動か否かなど)によっても違いますが、 昔ながらのテレビの刑事物や捕物ドラマのヒーローのイメージを自分に重ね合わせ 不特定多数にアピールしたい(そういう設定にしたい)だけの御花畑な第三者の高齢者より、 イマドキのネット事情が理解出来て居る現実的な若者の方が余程良く判って居ると思って居ります。

何が事実か。何が嘘か。何故それは嘘なのか。何故其処に嘘が生じ存在するのか。虚構か否か。 嘘と見做すものの排除では無く、其処に嘘が存在するという事実。 一つの好都合な要因の陰に隠蔽される幾つもの多角的な要因と触媒。 ヨノナカに数多散らばるカテゴリやバズワードにすり替えられた 一人ひとりの人間の私利私欲のジグソーパズルを丹念に嵌める事で、 其処から見えて来る、幾つかの未来。 重要な事は、其の後に起きる事の俯瞰的な想像力。 自分の思惑や目先の利害しか見えて居ないと、最終的に此れを見誤る。 地球はヒトの自己満足の為に廻っては居ない。 太陽はヒトを中心に廻って(天動説)居ない。 例えばヒトが居なくとも、それでも地球は、その時の環境に適合した夥しい種の生物を載せ、 自然の法則に従って、自転しながら太陽の周りを平然と廻っている。

名は体を現す。或いは、自分が自分の意図で発信したものを、誰がどの様な意味で受け取るか。その結果、どうなるか。 今のヨノナカが、誰でも安易に発信出来、誰もが何気に受信出来る分だけ、 其処まで意識して居る人と居ない人、其れが判って居る人と居ない人、 自分の意図しか見えて居ない人の差は、物凄く大きいと、傍から観ていて、いつも思う。 自分の主張に同調する人達が自分と同じ意図からで無い事例は非常に多く、最期は乗っ取られる。

20年以上の時間を掛けて大きな変革を続けて来た社会で 既に小中学校で自律的&協働的な授業の評価を受けて来た生徒達と、 時の流れを止め「変わらない」夢を見たがる高校の教育現場との厚い壁。 私は、変わらない「夢」を時流の中に求める。 例え「おじいさんのランプ」が「電灯」に変わっても、「灯す」夢は変わらない。 若いこれからの教諭達が試行錯誤しながら頑張っているのを眺めて居ると、とても嬉しかったりする。 安易に流されず、各々の歩幅で一歩ずつ、 頑張れ、かつて私と一緒に取り組んだ私よりは若い先生達! そして、若いこれからの先生達!


以下、あくまでも一般論。あくまでも私見。実体験。
不定期に処々書き換えています。

[0]近況
'96年2月7日にサイトを開いてから、'23年6月24日で 10,000日目。 そして、'24年2月7日、28周年記念日。29年目へ。 これもまた、次へ向けての一つのフェーズなのだろうか? chips-ml, 全商協会, 東海Schoolnet, Project-C, e2-Project, D-Project, 大阪私学教育情報化研究会, wym, asep, HighConf, 全高情研, 他にも様々な繋がりでお会い出来た、 教科や生徒と真剣に向き合い、気付き、学びと言う明確な目的の為の様々な方法という『金棒』を使いこなし、 50分という時間の授業・単元・教科の構成と演出や学校という場所に 誇りと責任を持つ教育現場の『鬼』の皆様に対し、感謝。

このサイトの情報系の内容について、プログラミングとか、共通テストとか、データサイエンスとか、生成AIとか、 ネタは結構持って居るけれど、日常のモチベーションの方向性が持てなくて此の所ずっと放置状態で、 この際だから完全リニューアルしようか、全く新しくしようか、それともスッキリと終えようか、などと、 『もう何年も今も繰り返される、 職員会議の生徒指導の綺麗事と裏腹に、 講義室などから日がな一日50分単位で大声で聞えて来る雑談の嬌声(授業らしい)と、 端からさせる気の無い形だけの課題と、毎考査前には対策プリントと称する考査問題と解答が 其の内容について何の解説も無く例え間違って居ても幾つも飛び交う、 教師自身が生徒も教科も授業も完全に馬鹿にし、何をしていても見ぬ振り、ただ時間を浪費し、 密室の中で何もトラブルが無いかの様に隠蔽&捏造して進級卒業させて、 教員同士も其れをお互いに見ぬ振りをして、校務も毎日が思い付き→其の場凌ぎ→先送り』、 そんな近年の日常を思いながら、割と真面目に色々と考えて居ります。 もう疲れたよ、眠いんだ、パトラッシュ。 そういう訳で、当分は独りでセルフケア&リハビリモードです。

この10年間程は本当に信じられない程に出鱈目な色々な事が起きて殆ど精神的に死んでいたのだけれど、 この2年間程は、幾つかの関わっているローカルな組織の中で、 COVID-19禍以前の様に、私なりに、独り隠密に、 横からアッチ突ついて、後からコッチ突ついて、舞台裏でアレして、舞台袖でコレして、 奈落で迫り上げて舞台廻して、など、 サポート、アシスト、フォローなどして動いて居ります。極一部にはバレたけど。 まぁ、良いけどね。もう余計な手出しをするのは止めようと思い始めて居るので、 後は若い本人達がキチンと責任を持って組織の健全な活性化の為に頑張って下さい。

私の今年度第4四半期は、私にとって「精神的に耐えられない幾つものコト」 「美味しい処取りで不都合は逃げる沢山の人達」 「もう内心どうでも良い幾つものコト」「どうでも良くは無い幾つかのコト」 「したくとも出来ない幾つかのコト」などを、私自身の気力体力年金額を第一にアレコレ仕訳し、 その許容範囲を模索しながら、私が来年度は、現場一筋36年目の実習助手をしているか、 教諭各自の自己顕示と思想が支配する教育現場の実態を見捨てフェードアウトか、 別の道を選んでいるか、思案とその為の準備の時間。

教諭がアレしたコレした、とひけらかすのも良いけれど、 その結果、生徒が実際に具体的に何処がどの様に変わったか、変わらなかったか、 それは何故か、次はどうすれば良いか、が好き。 大昔からの、学校や教諭の利害と自己満足だけの成果発表会と何も変わって居ない。 そして、もう変わりそうも無い。実感。

以前、出版関係のサイトを見て回った事が有る為か、 「あなたも出版しませんか」な広告がネットで良く出る様になった。 サービス内容も多様化し、しかも安価。 利益が出るとは全く思わないが、ネタは山程有るし、考えて見ようか知らん。


[1]教諭不足について
以前、別の処でも少し書いたけれど、 私(=助手)の35年間の現場での使われ方を時系列で細密に分析する事により、 この県の現在の教育現場の現状の原因と今後の予測を私なりに説明する事は全く難しく無い。 長編だし現在進行形で今は未だ出せないから、此処では詳細には書かないけれど。 教育現場の底辺に居続けたからこそ見えるものは沢山有る。 昨今の教員不足について乱暴に言えば、 井の中でのコンプライアンス無視やアンフェアな烏合の衆に嫌気が差した優秀な人材が流出した分を 免許も無い現場で育てる気も無い人材で数合わせしようとしても、 多くは、真面に授業や校務が出来ず、 生徒や時間を上手くコントロール出来ない言い訳から御花畑な働き方改革の声が更に大きくなるだけで、 教育現場の人的水準は益々劣化、ブラック化、 学校は、そんな教諭達による崩壊授業や実態は各教諭個人の気分でしか無い観点別ABC評価により無法地帯となり、 全国共通理解基準としての学習指導要領は崩壊して行く (手法が幾つも有っても目指す共通理解が同じなら良いが今はそうでは無い)。 逆に言えば、責任有る優秀な人材が来る様に対策し 更に現場で(仕事の押し付けでは無く)育てて次へ繋げる為のコントロールが何処かで出来れば、 時間は掛かるし抵抗勢力も多いけど少しは変わると、私は思うよ、たぶん。

責任を持って頑張って居る教育現場。 綺麗事のアピールだけでハリボテな教育現場。 仕事量が多い教育現場。船頭ばかりの教育現場。烏合の衆な教育現場。 他教科の教諭や何処かのオッサンに臨時免許を出し授業をさせ、 出した方と受けた方の双方で言い訳をし合っている生徒不在の教育現場。 上から目線で教科を舐め、生徒を馬鹿にし、生徒の気付きや学びよりも自分の保身や自己顕示の為に 生徒を利用する事しか考えていない教育現場。 シネコンな教育現場。毎授業時間中に何故か使わない彼方此方の講義室で キャアキャア雑談して騒ぐ座敷童の声や音楽が聞えて来る教育現場。 普段は何の説明も無く放置して遊ばせ直前に考査問題と解答が何科目も舞い飛ぶ教育現場。 作為的なTTの教諭はインチキ、出鱈目、居なくなり、 校長曰く「給料が欲しかったら我慢しろ=生徒が可哀そうなら授業しろ=評価下げるぞ」 と毎度のパワハラ&遣り甲斐詐欺、な教育現場。 職員会議での『授業中の生徒指導に対する教諭間の共通理解』と、 日常の教諭間での『授業中の生徒指導に対して「見て見ぬ振り」「事勿れ」 「話が分かる良い先生」→教諭の「だって」「どーせ」と大合唱で全方位に責任転嫁する暗黙の共通理解』 との凄まじい乖離、 授業の怠慢やインチキや不都合は教諭同士でお互いに見ぬ振りで時の流れを止めてヌクヌク、 自分をヌクヌクさせて呉れない人には陰湿なパワハラや嫌がらせ三昧、 依怙贔屓・事勿れ・嘘っ八な三観点評価な教育現場。 そしてヨノナカの変化に対応出来ず「どうせ」「だって」な教育現場。 様々なカテゴリ分けがありますが、 今後は更に、現場の教諭の意識による学校の人的な指導水準の二極化が進んで行くのだろう。 昨今は「学校要らない!学校の教諭の授業よりYoutubeを選んで観た方が良い」という声も多く聞かれますが、 そのうち、教育DXにより、 ビッグデータを分析し生徒一人ひとりの目標、性格や弱点に寄り添ったAIが幾つも登場し、 多くの教諭は要らなくなるのかも知れない。 色々な意味で、怖い。

私の実体験で言えば、 私がすればそれならと教諭も一緒にするかな、と考えていたのが、初任校。 しかし実際は教諭自身は授業も部活動も何もせず 不都合は全て私に押し付け成果だけ横取りして模範教諭、管理職へ。 取り巻き教諭も追随。ヌクヌクと定年退職した彼等の皺寄せを、 時流に置いて行かれた教諭があーだこーだと責任転嫁して逃げて居るだけ。 私は、定年後は、訊かれれば逆に此方からどうしたいのかを尋ねそれに応じて (私が判るならば)私なりの方法やノウハウを話すが、 それ以外は必要以上には何も口を出して居ない。 私がすれば教諭がしなくなるから。私が居なくなったら動かなくなるから。 不都合は後で責任転嫁されて其処で終わるから。 「これが私の授業法だ、逆らえば助手なんざ不適格でクビだ」と言うのなら、 例えば文書速度が11分とか、それがどんなにインチキで出鱈目で生徒や科目を馬鹿にして、 自身の私利私欲と保身を何よりも最優先に明け暮れ、 或いは自己満足な思想の「成績」という名の押し付けであっても、好きにすれば宜しい。 旧い船を此れから動かしていくのは旧い水夫では無い。 私には私の宙船と湊。此れからの若い人達がどうしたいのか。私の思いは其処だけ。

[2]商業について
今は大昔、国語科から転向し商業(情報処理)の助手として、 生徒に少しでも理屈を判り易く理解して貰おうと一所懸命に研究し、 通産一種合格者を毎回出した程度のプログラミング指導や、データ活用や、情報のデザインや、 課題研究や、起業教育や、国際交流の運営や、他色々を経験し、 或いは Project-C で、開店早々の相可高校「まごの店」や吉原商業「吉商本舗」、 初期のジュニエコをはじめ、全国彼方此方を夜行バスや普通列車、 時には長距離フェリーで自腹アポ無しで突撃して現場を直接観させて頂き、 私自身の課題として考えて来た分だけの思いは山程持って居る。

[3]検定について
教諭が一方的に説明し生徒に理解させる授業方法を止め、 生徒が課題や疑問に対し主体的協働的に考える授業にして行こう、というのが近年の流れ。 それを「前提」とするならば授業での学びの見える化としての検定指導も同様にすれば良いと思うが、 中々にそうはならない模様。 教諭曰く「それでは合格出来ない!」「三冠取れない!」。 その一方で様々な取り組みで「コミュニケーション能力!」「自発的に行動!」などビジュアルにアピール。 両方とも形骸化している場合も有り得る。 根本は例えば昭和の時代から今もなお続く、 本質を説明せず(出来ない?)「白は#FFFFFF!赤は#FF0000!これを暗記!、試験に出す!」的な 他の色に発展しない授業方法に有ると思うのだけど。 商業の情報処理に関しては、 イマドキは小中学校でも使って居るWordやExcel等の検定対策中心の「情報処理Ⅰ(=「情報Ⅰ」の代替科目)」 よりも「情報Ⅰ」を受けた普通高校の生徒の方が本質を理解し応用出来て居る場合も有り得る。 生徒が馬鹿にされているのか、学校や教諭が変わりたくないのか (←別の処で書いたら「両方です」とコメントが付いた。私もそう思って居ります)。 各検定がヨノナカからどの様に見られているかを考えた時、 検定を維持するのなら、そろそろ考えた方が良いのではないかと。

[4]情報について
教科「情報」は1986年に中央教育審議会第1次答申、2003年に開始して既に約20年。 しかし、「どーせ」でどうでも良い科目に印象操作し、授業した振りして、適当に評価して、単位認めて、 検定も合格にして、卒業すれば誰も文句無いだろ、 面倒事は全て他人に押し付け予算とか成果とか美味しい処だけ頂き、模範教諭で管理職へ、 自分が退職すれば後の事は知らん、という、商業科「情報処理」の大昔から漂う雰囲気は、 教科「情報」の開始時に全国的な社会問題となった「単位未履修問題」以降も何ら変わる事無く、 全て自分以外(県、学校、助手、生徒)に責任転嫁するだけの形骸化した現在の教育現場へ繋がっている。 今の実態は、約20年もの間、教諭は、過渡期としての責任も果たさずヌクヌクと一体何をしていたの? というだけの話。 問題点を洗い出し、どんどん改善すべき。更に次の学習指導要領の改訂作業も既に始まっている。
因みに、「情報は入試の為に学ぶものでは無い」という主張は将にその通りで、 私は情報に限らず国語でも英語でも数学や理科でも全ての教科がそうであると考えて居ります。 同様に「情報を入試科目にすべきなのか」という20年前から頭が停止している今更な呆けた主張は無視させて頂きます。 大学入試制度全体の議論をしたいのであれば別だが、そうで無ければ、これは現場の意識の問題。 今更、他の諸々に責任転嫁しても空しいだけ。 但し、現時点における共通テストと受け入れる大学側の対応がグダグダだな、とは思う。 此の儘では基本的な情報の活用能力において日本はどんどん外国と差を付けられるだろう。 (高校の入試科目に無いから)高校入学時に差が有り過ぎる、と主張するのなら、 それは、情報科目の入試を高校でも実施すべきだ、という主張なのだろうか。反対はしないけど。

[5]情報のデザインについて
「情報デザイン」と書くと伝わらない人達が居るので敢えて「情報のデザイン」と書いておきます。
情報のデザインは、例えば ’03年「第1回情報デザインシンポジウム」に於いて 当時の勤務校で美術の先生と一緒に取り組んだ実践の内の一つの発表をし、 「情報デザインとはコンピュータで絵や動画を作成する事自体では無く 何を過不足無く判り易く対象者に伝えるか、で有り、 例えば大学の学食の導線等も情報デザインで有る」という話をさせて頂いたり、 また別の機会では’12年に駅の発車ベルの情報デザインの話をさせて頂いたり、と、 大昔から興味深い重要な主題の一つ。 生徒は、Premiereでも、Win3.1の時代はSuperKIDのボタンやAccessのクエリでも、 考え方と基本的な操作方法さえ理解出来れば、 後はファシリテート次第で面白がって自由な発想で個性的で情報が上手くデザインされた作品を創っていた。 また、私自身、プロジェクトの進行状態の整理や経過のアーカイブなどで裏でゴソゴソ動くのも情報デザインだしね。

[6]授業について
ずっと大昔から書き続けていて、だから言ったでしょ、なんて事も書きたくも無いけれど、 「判った」と「判ったつもりにさせる」、「出来た」と「出来たつもりにさせる」は、全く違う。 どちらになるか、は、授業をする教諭次第。 教育現場では昔から後者が多いが、 特に「成功体験」「達成感」「判り易い授業」「授業評価」「三観点」以降、最近は後者が殆ど。 進学校か教育困難校か、という軸とは別に、 将来は、「生徒自らの面倒臭いが面白いと思わせる試行錯誤により深く学ぶ」授業を旨とする学校と 「判り易い=説明も無く答だけ教えて貰って考査も満点、頑張ったつもり、判ったつもりで全員卒業」 授業を旨とする学校とに、二極化するだろう。 今のヨノナカの、表面上の1つのキーワードでお互いに判った感覚になりそれ以上は深入りせず、 後で食い違いが露見してトラブルが複雑化する、 或いは、滅茶苦茶な思考で自分だけが全て判って居るつもりになって他者を感情的に見下すノイジーマイノリティと、 鼻で笑って無視するサイレントマジョリティ、といった傾向は、 上記の様な授業をする教諭や、上記の様な授業を受けて来た高校生がヨノナカに増えた結果なのだと確信している。 ねぇ、A県のM先生?